アルゴリズムが奪えなかった手触り――なぜ2026年、日本中で「万物 相」への熱狂が起きているのか

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アルゴリズムが奪えなかった手触り――なぜ2026年、日本中で「万物 相」への熱狂が起きているのか
アルゴリズムが奪えなかった手触り――なぜ2026年、日本中で「万物 相」への熱狂が起きているのか
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🎵 アルゴリズムが奪えなかった手触り――なぜ2026年、日本中で「万物 相」への熱狂が起きているのか

万物 相という言葉の響きに、いま多くの人が不意に足を止める。2026年、春。生成AIが個人の趣味嗜好を寸分の狂いもなくプロファイルし、スマートフォンの画面越しに「最適解」ばかりが差し出される毎日に、私たちはどこかで息切れを起こしていた。東京・蔵前の裏通りや京都の古い町家、福岡の港町。看板すら掲げない薄暗い空間の引き戸を開けると、鼻腔をくすぐるのは古紙と錆、そして乾いた土の匂いだ。棚には年代不詳の鉱物、遠い異国の農具、誰かが遺した日記の断片、形も定まらない陶片が無作為に並ぶ。整然とタグ付けされたデジタルの海では逆立ちしても巡り合えない「得体の知れないモノの気配」が、静かな地殻変動を起こしている。

店主たちはその空間を、あるいはその現象そのものを、親愛を込めてそう呼ぶ。客たちは値札のついていない歪なガラス瓶を指先でなで、じっと息を潜める。かつて東洋の思想家たちが説いた万物 相の眼差し――森羅万象、転がる石ころから風化しかけた古布にまで固有の命と「相(かたち)」が宿るという感覚が、効率化に疲れ果てた現代人の皮膚感覚を鮮やかに撃ち抜いているのだ。検索しても用途すら分からない物体を、なぜ人は抱きしめるように買って帰るのか。現場で蠢く熱気は、単なるレトロブームの再来という言葉では到底片付けられない。

整然としたデジタル空間をすり抜ける「混沌」の誘惑

理由などない。ただ、目が合ったのだ。

渋谷のIT企業に勤める30代の女性は、先週末、都内の雑居ビルで開かれたポップアップで、重さ2キロもある黒曜石の塊を買い求めた。用途はない。ペーパーウェイトにしては大きすぎるし、部屋の北欧風インテリアからも完全に浮いている。「毎日、画面の向こうでノイズのない完璧なテキストと画像ばかり見ています。でも、この石のギザギザした冷たさに触れた瞬間、自分が身体を持っていることを思い出したんです」。彼女は少し照れくさそうに笑った。

2026年の今、世の中はあまりに滑らかになりすぎた。最短ルートでの買い物、最短時間での情報収集、最短距離での人間関係。フリクション(摩擦)を徹底的に削ぎ落とした社会の果てに待っていたのは、すべてが均質化された退屈な世界だった。そんな日々に風穴を開けたのが、雑多極まりないモノたちが放つ無言の圧力だ。論理的な説明を拒絶するカオスの中に身を置くこと自体が、最高に贅沢なデトックスとして機能し始めている。

古物・鉱石・奇妙なガジェット――雑多さが生み出す予期せぬ対話

「うちに来るお客さんの半分は、何を探しているのか自分でも分かっていませんよ」

台東区で週末だけ開く店を営む男性(48)は、煙草の煙を燻らせながら語る。店内には、大正時代の電話機の受話器だけが三つ並び、その隣に1980年代の旧ソビエト製レンズ、さらにその下には正体不明の種子がガラス瓶に詰められている。整列も分類もない。だが、その無秩序な並びの中に、訪れた者は自分だけの文脈を勝手に見出していく。

「このガラクタとこの石が隣り合っていることで、見る人の中にだけ生まれる物語がある。AIは『あなたへのおすすめ』を出せても、『文脈の事故』は起こせないでしょう? 人間はね、その事故にこそ救われる生き物なんですよ」

陳列棚の間を歩く人々の表情は真剣そのものだ。何ひとつ規格化されていないからこそ、観る側にも覚悟が求められる。品物の前にしゃがみ込み、光にかざし、埃を払う。そこには消費ではなく、モノとの個人的な対話がある。

「見る」のではなく「読み解く」――東洋の観相思想と現代人のメンタルヘルス

単なるモノの売買を超えて、この現象が人々の精神的な支えになっている点も見逃せない。古来、東洋の観相学や自然観において、「相」とは表面的な形状だけではなく、内包する運命や気の流れそのものを指していた。木には木の相があり、石には石の相がある。人間もまた、その連なりの一部にすぎないという捉え方だ。

臨床心理士のひとりは、この動きを「過剰な自己責任論からの避難」と分析する。「現代人は四六時中、セルフブランディングや評価経済の視線に晒されています。『自分は何者か』を定義し続けなければならない強迫観念がある。しかし、風雪に耐えてただそこに在るだけの歪な流木や鉱物を眺めるとき、人は自らの存在を無条件に肯定されるような感覚を覚えるのです」。

語らないモノに自らを投影し、その風貌をただ受け止める。評価もいいねの数も関係ない世界で、モノの「相」を観る行為は、そのまま自分自身の輪郭を取り戻す瞑想のような役割を果たしている。

タイパ主義の終焉か?あえて「意味のわからないモノ」に金を払う若者たち

もっとも熱心な買い手となっているのが、20代を中心とする若い世代であることは極めて象徴的だ。生まれた時からデジタルネイティブであり、1.5倍速での動画視聴や効率重視の「タイパ(タイムパフォーマンス)」を骨の髄まで叩き込まれてきた世代が、いま最も非効率なものに財布を開いている。

「これ、なんの部品だと思います?」

下北沢の路地で声をかけた大学院生(23)が見せてくれたのは、錆びついた真鍮の歯車と鳥の骨が針金で束ねられた謎のオブジェクトだった。価格は1万2000円。決して安くはない。「友だちに見せても『何それ?』って言われます。でも、その『何それ?』が最高なんです。調べてもウィキペディアに載っていないものを持っていたい。何の意味もないからこそ、僕だけのものになる気がする」。

効率化を突き詰めた結果、すべての体験が消費し尽くされ、予測可能になってしまった。その反動として、意味や機能から解放された「純粋な物体」を所有することへの渇望が、彼らを突き動かしている。

AI判定への強烈な違和感が生んだ「不揃いな美」の復権

完璧な左右対称、傷ひとつないテクスチャ、アルゴリズムが弾き出した黄金比。2026年の生活環境は、美しさの基準すらも機械学習によって規格化されつつある。スマートフォンのカメラは自動で肌のくすみを消し去り、音楽は耳触りのいい周波数にチューニングされる。だが、その「美の過剰供給」が、かえって人間を窒息させかけているのではないか。

いま脚光を浴びている空間に並ぶものは、ことごとく不揃いだ。欠けのある茶碗、虫食いだらけの古書、表面が酸化して緑青を吹いた銅板。機械にとっては「エラー」や「不良品」として弾かれる要素こそが、人の心を惹きつけて離さない。

傷があるからこそ光が乱反射し、歪みがあるからこそ手になじむ。人間の身体そのものが本来、不完全で傷つきやすい存在である以上、完全無欠のデジタルデータよりも、傷だらけの物体のほうに親近感を覚えるのは至極当然の帰結かもしれない。

路地裏の片隅から始まる、世界との新しい結び直し

夕暮れ時、店の前には静かな列ができていた。誰ひとり大声を出すこともなく、順番に小さな引き戸をくぐっていく。流行のスイーツを買い求める行列のような浮ついた空気はそこにはない。どこか巡礼者にも似た、静謐な熱気だ。

便利さはもう十分に手に入れた。生活のあらゆる隙間をスマートなテクノロジーが埋め尽くした2026年だからこそ、私たちは再び、手で触れ、重みを感じ、自らの五感で世界を測り直そうとしている。

薄暗い店内で、誰かが古びた真鍮のベルをそっと鳴らした。澄んだ、しかし少し掠れた乾いた音が、静かな空間に波紋のように広がる。その音の余韻が消えるまでの数秒間、そこにいた全員が確かに、目の前の世界と新しく結び直されていた。規格化された日常の向こう側に広がる、名づけ得ぬ豊かさ。それを確かめるための旅は、まだ始まったばかりだ。 (出典: 万物 相(Yahoo!ニュース)

万物 相
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