「甘すぎる、しょっぱすぎる」老舗弁当の賛否両論——2026年、なぜ日本橋「弁松」の評価は真っ二つに割れ続けるのか

目次
「甘すぎる、しょっぱすぎる」老舗弁当の賛否両論——2026年、なぜ日本橋「弁松」の評価は真っ二つに割れ続けるのか
「甘すぎる、しょっぱすぎる」老舗弁当の賛否両論——2026年、なぜ日本橋「弁松」の評価は真っ二つに割れ続けるのか
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 「甘すぎる、しょっぱすぎる」老舗弁当の賛否両論——2026年、なぜ日本橋「弁松」の評価は真っ二つに割れ続けるのか

弁 松 まずい——検索窓に並ぶこの剥き出しの4文字は、老舗の暖簾に対する現代のリアルな当惑を物語っている。デパ地下の洗練されたショーケースの中で、ひときわ異彩を放つ茶一色の折詰。日本橋に拠点を構える「日本橋弁松総本店」の弁当を買い求めた初見の客が、期待を込めて煮物を口に運んだ瞬間、その規格外の濃厚さに目を白黒させる。そんな光景は、令和の今も日常茶飯事だ。

「一口で喉が渇く」「砂糖と醤油の塊ではないか」と吐き捨てるようなレビューが並ぶ一方で、何十年と通い詰める熱烈な贔屓筋は「この味でなければ白飯を食った気がしない」と激賞する。2026年の現在、ネット上で定期的に燃え広がる弁 松 まずいという直球のフレーズは、単なる味覚の好き嫌いを超え、私たちがいつの間にか忘れてしまった都市型食文化のルーツと、現代人の味覚の変化が衝突する現場そのものだ。

創業170余年の重みが生む「茶色い衝撃」と減塩社会の衝突

折箱の蓋を開けた瞬間、目に飛び込んでくるのは徹底的な「茶色」のグラデーションだ。飴色に煮崩れ寸前まで炊き込まれた里芋、黒々とした椎茸、そして独特の食感を持つ「つと豆腐」。彩り鮮やかな現代の映え弁当とは対極にあるその無骨な佇まいが、まず消費者の先入観を揺さぶる。

弁松の創業は江戸後期の嘉永3年(1850年)。冷蔵技術など影も形もなかった時代、魚河岸の労働者や芝居見物の観客に向け、朝作って夕方まで傷まない弁当を提供することが至上命題だった。保存性を極限まで高めるために選ばれたのが、濃口醤油と上白糖で水分を飛ばしながら煮詰める手法だ。健康志向や減塩が当たり前となった2026年の食卓において、この江戸直系のヘビー級の味付けが「塩分過多の異物」として知覚されるのは、ある意味で必然と言える。

「砂糖と濃口醤油を限界まで」——現代の出汁信仰に対する痛烈なアンチテーゼ

現代の日本料理界を支配しているのは、澄んだ鰹節と昆布の「出汁(だし)」をベースにした京都風の上品な味付けだ。コンビニの総菜から高級割烹に至るまで、薄味で素材本来の風味を引き出すことが「正義」とされ、塩分控えめであることが良識とされている。

だが、弁松のアプローチはこれら現代の常識に対する痛烈なアンチテーゼだ。出汁で優しく包み込むのではなく、濃口醤油と砂糖の力で素材をねじ伏せる。生姜の辛みを効かせた牛肉の佃煮や、甘さが舌に焼き付くような玉子焼き。素材の奥まで調味液が染み渡り、噛んだ瞬間に甘辛いジュースが口腔を満たす。この圧倒的な濃さを「コク」と捉えるか、「味覚の暴力」と受け取るかで、評価は天と地ほどに分かれる。

「薄味好きは買わないで」公式が放つ異例の警告

世の食品メーカーや飲食店が批判を恐れて万人受けの味付けへと日和るなか、弁松のスタンスは清々しいほどに頑固だ。かつて公式発信や掛け紙などで「当店の料理は甘辛く、濃口醤油と上白糖でしっかり煮詰めてあります。薄味好みの人には合いません」といった趣旨をあらかじめ明言してきた経緯がある。

クレームを未然に防ぐための予防線というよりは、自らのアイデンティティに対する誇りと覚悟の表明だ。誰にでも愛される八方美人の味を作れば、江戸から続く独自の遺伝子は霧散してしまう。顧客に迎合するのではなく、「うちの味はこれだが、あなたは受け止められるか」と静かに問いかける姿勢は、クレーム過敏症に陥った現代の飲食業界において極めて異例の輝きを放っている。

星1と星5の殴り合い——レビューサイトにみる極端な二極化

グルメサイトやSNSにおける弁松のスコアを眺めると、中庸な「星3」が極端に少なく、最低評価の「星1」と最高評価の「星5」が激しくせめぎ合っているのが特徴的だ。平均値は実態をまったく表していない。

星1をつけるユーザーの多くは、日本橋の老舗というブランドネームに高級料亭のような繊細な京料理を勝手に期待し、その落差に裏切られたと感じている。一方で星5をつける層は、これを日常のおかずではなく、冷えた白飯を無限にかきこむための燃料、あるいは冷酒を痛飲するための最高峰のアテとして評価している。文脈を理解しないまま口にすれば毒となり、文脈を知って味わえば唯一無二の劇薬となる。この二極化こそが、弁松が今なお生命力を失っていない証拠だ。

電子レンジに頼らない「冷めて完成する」弁当の美学

コンビニ弁当の台頭以降、私たちは弁当を「温めて食べるもの」として扱うようになった。しかし、弁松の弁当はレンジで加熱することを想定していない。むしろ、冷え切った状態でこそ真価を発揮するよう緻密に設計されている。

冷えたご飯は硬く、甘みを感じにくくなる。その硬質な米粒を喉の奥へ流し込むためには、舌の体温で溶け出すような濃厚なタレと、輪郭のくっきりとした塩気、そして力強い甘みが必要不可欠なのだ。冷たい経木(きょうぎ)の香りが移った白飯と、冷たくなった煮物の相乗効果。それは温かい食事を至高とするタイパ重視の現代人が置き去りにしてきた、かつての日本の知恵でもある。

万人受けを捨てた老舗が示す、均質化された時代への処方箋

アルゴリズムによって最適化され、誰もが不快感を抱かない無難な味ばかりが溢れる2026年のフードシーン。コンビニの棚には平均点の高い優等生が整然と並び、どの街に行っても似たようなマイルドな味付けに出くわす。

そうした無菌室のような食環境において、弁松の突き抜けた甘辛さは、ある種の文化的な劇薬として機能し続けている。万人受けを最初から放棄し、自らのルーツに忠実であり続けること。時代遅れと罵られようとも、170年前の味の設計図を頑なに守り抜くこと。検索窓に打ち込まれる批判的なワードは、老舗が均質化の波に飲み込まれず、今も尖り続けていることの何よりの証明なのかもしれない。 (出典: 弁 松 まずい(Yahoo!ニュース)

弁 松 まずい
弁 松 まずい
弁 松 まずい